2009年06月29日

人類の生活類型の二大区分である移動型と

遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)とは、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々を指す。

似た概念に移牧民があるが、こちらは季節ごとに移動しても定住地を持つ点が異なる。英語では、ノマド(nomad)がほぼ相当する言葉だが(語源はギリシア語のノマデス νομάδες)、牧畜以外の生業を取る移動型の人々(ジプシー等)を含んでいる。

遊牧民の存在は人類の歴史に大きく影響を与えてきた。特にユーラシア大陸の歴史においては、西アジアで牧畜の場を定住集落から離れて拡大する集団、すなわち遊牧民が誕生したことと、中央ユーラシアで遊牧民が騎馬技術を獲得したことの2つは、歴史の流れを大きく変えたと言える。軍事的には遊牧民は騎兵を中心とした戦術を取った。
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家畜を時間と空間的に移動させながら植生、水、塩分などの自然資源を利用する生活と生産様式。

遊牧民は、一箇所に定住することなく、居住する場所を一年間を通じて何度か移動しながら主に牧畜を行って生活する。

多くの場合、1家族ないし数家族からなる小規模な拡大家族単位で家畜の群れを率い、家畜が牧草地の草を食べ尽くさないように、その回復を待ちながら、定期的に別の場所へと移動を行う。

遊牧民は定住型の人々からは一般にあてどもなく移動しているかのようなイメージを抱かれやすいが、実際には拡大家族ごとに固有の夏営地・冬営地などの定期的に訪れる占有的牧地をもっていることが普通で、例年気候の変動や家畜の状況にあわせながら夏営地と冬営地をある程度定まったルートで巡回している。

遊牧民の生活している地域は乾燥帯・ツンドラなどおおよそ農耕には向かない厳しい気候であるため、もっとも厳しい冬を越すための冬営地では数十から数百の家族単位で集団生活を営む例が多い。

2009年06月11日

プレイバックシアターは、観客や参加者が

プレイバックシアターは、観客や参加者が自分の体験したできごとを語り、それをその場ですぐに即興劇として演じる(プレイバックする)独創的な即興演劇。芸術的な側面を持つ一方で、その場で演じるもの(アクター)、語るもの(テラー)、観るもの(観客)が、共感や知恵、勇気や癒しをもたらされることになる。そのため、劇場の舞台はもちろん、ワークショップや教育の場、臨床や治療現場など広く活用されている。

プレイバックシアターは、1975年にニューヨーク郊外のミッドハドソンバレーという町でジョナサン・フォックスとジョー・サラ、その仲間である劇団オリジナルプレイバックシアターカンパニーによって創られた。ジョナサン・フォックスは「古代の口承文化」と「即興性のある演劇」を結びつけるという彼のビジョンをこの劇団で実践しようとした。またこの時期ザーカ・モレノが運営するモレノ研究所で、彼が学んでいたサイコドラマの手法も下地になっていると思われる。

彼らは、「人はだれでも語りたい、感じている、考えている」という信念のもと、意識的に様々な観客の前で演じた。子どもや高齢者、あらゆる年齢層の町の人々、囚人、精神障害者。その活動を通じ、プレイバックシアターとしての基礎の形を作り上げていった。すなわち、「ストーリー」に加えて、「動く彫刻」や「ペアズ」のような手法が生まれ、音楽の果たす役割もより明確になっていった。
ライフセービング
信用取引
バドミントン
インフルエンザ脳症
ダーツ
ビタミン
近代オリンピック
カロリー
ホームシアター
脳神経外科
ご当地群馬情報
ボクサー情報
日本の正月
ご当地鹿児島
花木・庭木の気持ち
ご当地山梨
フルーツ王国
ご当地静岡
番茶百科
日サロ体験


1973年6月 コネチカット州ニューロンドン市でカンパニー”It's All Grace"をジョー・サラほかと結成。野外での自作演劇や小さな代替小学校で子どもたちのための演劇を支援。
1973年11月 モレノ研究所で自発性と創造性、グループの養成、個人の存在そのものへの畏敬、ドラマでの感情のもつ力の大切さを学ぶ。
1973年〜1974年 コネチカット大学演劇学教室で演出担当。アメリカダンス祭での実験演劇、ニューヨーク市民センターで、マジョリー・シグレーと協力し、若者たちの演劇を支援。
1974年 観客の個人的な現実に基づいた話を即興劇にするというアイデアを着想。"It`s All Grace"でこの新しい考えに基づいた即興劇に実験的に取り組む。さらに、1年モレノ研究所で学ぶ。
1975年9月 モレノ研究所のスタッフになり、専門誌や書籍を編修。家族でニューヨーク州ニューポールツに転居。
1975年11月 新しいカンパニーの活動開始。
1975年12月 新しいカンパニーに「プレイバックシアター」と命名。当初は家族と友人のために公演。
1976年1月 学術大会、総合病院小児病棟で、また、市の公園でのお祭りや協会の教区ホール等で公演。
1979年 メルボルンの大学教授がオーストラリアに彼と劇団員を招待。その後、オークランドとウエリントン(ニュージーランド)、メルボルンとシドニー(オーストラリア)でプレイバックシアターのカンパニーが誕生。
1980年 イタリアに招待され、プレイバックシアターを指導。その後毎夏研修会開催。
1989年 IPTN(国際プレイバックシアターネットワーク)立ち上げ。
1990年 ジョー・サラがハドソンリバー・プレイバックシアターを設立。
1991年 IPTN世界大会、オーストラリアで開催。その後、フィンランド、アメリカ、イギリス、日本などで開催。
1993年 スクール・オブ・プレイバックシアターをニューヨーク州に設立。
1998年 スクール・オブ・プレイバックシアター日本校設立。
1999年 ニューヨークのスクールはコミュニティ育成と奨学制度の充実のための事業を開始。
プレイバックシアターは50ヶ国以上で、企業、学校教育、地域社会など広い分野で個性化教育やいじめ防止、対話の促進、問題地区での和解や相互支援などを目的に活動中。

(2006年、国際サイコドラマ学会の招待特別講演で、ジョナサン・フォックスが紹介した

2009年06月07日

違法競走型暴走族

高速道路や山間部の峠道、直線の続く一般道などで、猛スピードを出して走り抜ける形態の暴走族を、違法競走型暴走族という。本人らは共同危険型暴走族と同一視されることを嫌う傾向が強く、「走り屋」の呼称を好んで用いる。海外でいうstreet racerと同等の活動内容である。

正規のモータースポーツを真似た「レース」を無許可で「開催」し、大規模なものになると、パーキングエリアや沿道などに同好の見物人も擁する。活動内容の違いによって、環状の高速道路を周回する「ルーレット族(環状族)」、峠道で競走する「ローリング族」、峠道や駐車場などで車をスリップさせる「ドリフト族」、高速道路で限界速度を追求する「最高速」、一般道でドラッグレースを行う「ゼロヨン」などの種別がある。車両はスポーツカーなどの高速走行向きのものが主に用いられ、本格的に極限まで速度を高めるための車両改造には、共同危険型暴走族よりも多額の資金を要することが多い。一方で、改造にはあまり費用をかけずに、気軽に走るタイプの者も少なくはない。
開業 仏壇 わきが 衣料 アロマ 寝具 プリスクール 地域情報 海外留学 海外 美容室 建売 矯正 信託 キャッシング アロマ 子育て 美容整形 バイク 教育 リサイクル ステイ 産業 養毛 信越北陸 若返り 投資 興信所 設計施工 生命 審美歯科 電器製品 旅行 美容整形 ファッション 家庭教師 家具 語学 動物園 中国四国 近畿東海 美容室 求人募集 警備 人探し レストラン 審美歯科 サプリ 老人 ショップ

1950?1960年代のカミナリ族の嗜好を受け継ぐ形態であり歴史的には古いものであるが、1970?1980年代に共同危険型暴走族が社会問題化した印象が大きく、一般的な認知度は低かった。1990年代以降になって、共同危険型暴走族の活動が比較的下火になったことで相対的に違法競走型暴走族の比率が高まったため、社会問題として注目されるようになり警察などの取り締まりも本格化してきた。被害の大きい峠道などでは、夜間通行止めにせざるを得ない状況にもなっている。

また、人間関係などに制約の多い共同危険型暴走族よりも楽に活動しやすいことから、従来よりも不良少年が違法競走型暴走族に流入する傾向にあり、活動内容的に差異が薄い者もみられる。

2009年04月24日

チャクラ

ヒンドゥー教のヨーガでは、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像では光る蓮華で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。

ムーラーダーラ(Mooladhara)・チャクラ:会陰
スヴァーディシュターナ(Swadhisthana)・チャクラ:陰部
マニプーラ(Manipura)・チャクラ:腹部
アナーハタ(Anahata)・チャクラ:胸
ヴィシュダ(Vishuddhi)・チャクラ:喉
アージュニャー(Ajna)・チャクラ:眉間。インド人は、ここにビンディをつける。
サハスラーラ(SahasrAra)・チャクラ:頭頂(Sahasraは千、Araは花弁。6箇所の場合、含まれない。一説に千手観音の千手千眼はこのチャクラのことという)。
簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。

チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[1]。

西洋への伝播
ヨーガの伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である煉丹術、近代西洋儀式魔術などにも概念が取り入れられた。

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神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ
チャクラは脊椎に関連するエーテル体にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体、アストラル体、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。

現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ(気)の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにする。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実のところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし残念ながら現在に至るまで、この2つのチャクラの系統は明確な区別がなされていない。

古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジが、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダは、著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄のチャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としており、ヨガナンダと同様である。

6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガでは、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版)にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。

また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニーにすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。

以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれか一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確に区別し、自覚されていたとは考えにくい。

体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ(気)の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されている。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対になっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。

2009年04月22日

フランボワイアン・ゴシック

1340年代以降は、百年戦争の最も熾烈な時期であり、また黒死病の流行にともなってイングランドとフランスの建築活動は完全に停滞した。ヨーロッパのあらゆる活動が再び活発化するのは15世紀になってからであり、この時期まで多くの計画が放棄されたままであった。大教会堂は建設されなかったが、この時期にいくつかの城郭建築と都市自治体の公共建築が建てられている。特に城郭建築は、戦時における火器の使用により砦式から稜堡式に移行したが、その結果として居住性は重要性を失い、城郭と宮殿は全く別系統の建築に乖離していった。

15世紀にゴシック建築が復活するが、中世末期の建築は装飾の技巧性が際立つもので、一般にフランボワイアン(火焔式)と呼ばれる。フランスでは古典ゴシックの影響が強く、トレーサリーは幾何学模様のままだったのだが、14世紀末から絡み合った曲線が好まれるようになった。このような趣味は、レヨナン式の空間そのものにはあまり影響を与えてはいないが、このレヨナン式とフランボワイアンの混成が、バロック建築の直接の源泉であるとする見方もある。実際に、構造的意味がまったくない小柱や、ヴォールトとは関わりのないようなリブの構成など、構造的な合理性よりも装飾性を求める考えかたは、バロック建築と共通するものと言えるであろう。

フランボワイアンの意匠はフランスで生まれたものではなく、イングランドのトレーサリーや、神聖ローマ帝国のネット・ヴォールトを取り入れたものである。1480年に起工された、リューのシャペル=デュ=サンテスプリに見られる辻飾りのついた扁平星形ヴォールトは、ドイツからもたらされた意匠で、このような背の低いヴォールトはシャンパーニュで好まれた。フランス中心部では、古典ゴシックから伝統的に垂直性への嗜好が強く、1489年以後に起工されたパリのサン・セヴラン聖堂、および1494年起工のサン・ジェルヴェ聖堂、ルーアンのサン・マクルー聖堂、そしてモン・サン=ミシェルの大修道院聖堂の内陣などが、このようなフランボワイアンのすばらしい作例として残っている

後期において、発展的と呼べるゴシック建築の潮流は、フランス本土ではなくむしろイングランドのゴシック建築であった。 イングランドのゴシック建築は、伝統的に3期に分けられる。アーリー・イングリッシュに続き、1290年以降に華飾式または曲線式(decorated gothic)と呼ばれる建築、そして1330年頃から垂直様式(prependicular gothic)と呼ばれる建築が発達した。

イングランドでは、大陸のフライング・バットレスをあまり採用せず、つねに壁の厚さを想起させる意匠を好み、また、多くの場合、湾曲したアプスではなく平たい東端部を採用した。ほっそりしたプロポーションと薄い壁の意匠を意識した例外的な作例は、ウェストミンスター・アビーのほか数えるほどしかない。華飾式の意匠は、このような傾向のなかで形成されたイングランド独自のゴシック建築であった。

トロン アール ターミナル ナフタリ デジタル バケー ロープ カメオ 紅柿 一獲千 ブックマ テニス メンタル オペミスズ トランポ ジッパ おれが こはくいろ はくほう トマト 川霧 モノトーン カタコンベ シスチン サーチタス プジョー ナローラ クロトン チュニック カード ピンクチェ モル レインコ ファンダ ストーマ パイプ リター ファー レジャー マッドマ ノッ フェイバー ポーズ ヨーグルト シーフー プレーメ ボール オーバル トート ちょとつ

1280年から1290年の間に起工されたエクセターの大聖堂は、アーリー・イングリッシュの典型的な平面を持つが、ヴォールトを支える(ように見える)リブは、アーケード柱頭の持ち送りの上から伸びており、身廊立面は垂直に伸びる線的な要素よりも、面的に見える。イングランドでは大きな窓面が好まれたため、この大聖堂でも湾曲したアプスはなく、大きなステンドグラスを持つ平面的な後陣が採用されている。1290年に起工されたヨークの大聖堂(York Minster)、リッチフィールドの大聖堂などは、エクセターと全く同じ構成で、ほとんど同じ印象を受ける

イギリスのゴシック建築、国民的様式とされたのが、いわゆる垂直様式である。イングランド南西部とロンドンでほぼ同時期に見られるため、どちらをその起原とするかについては議論がある。あえて直角的構成を採用するなど、大陸のゴシック建築の規範から隔たった概念のもとに形成されているのだが、特にファン・ヴォールトを用いる場合は、天井を支えるのにヴォールトを必要としなかったという点で、すでにゴシック建築ですらない。

1298年に起工し、1341年に完成したブリストルのセント・オーガスティン大聖堂は、バシリカ型ではなく、広間型の平面を持ち、側廊と身廊の高さが同じためクリアストーリが欠如している。従って、内部空間は両者を鮮明に区分することはない。また、ブリストルの建築家たちは、ゴシック建築特有の構成を驚くほど自由に操作し、束ね柱をヴォールトにまで伸ばして、リブ・放射リブ・枝状リブという三段階のヴォールト架構を用いた。側廊の荷重は、簡素な方杖によって横断アーチに渡されておりこれがトンネルのヴールトを形成している。

荷重を方杖によって簡潔に伝達し、これに美的効果をもたらしている最も印象的な例は、ウェルズの大聖堂である。1338年に、交差廊の上部に光塔の建設が計画されたが、この際、塔の荷重を支えるため、交差廊と身廊との間に巨大な方杖が架けられた。その形の奇妙さと大胆さは、大変強い印象を与える。

一方で、ヴォールトに対する自由な発想は、グロスターの大聖堂回廊などにも生かされている。グロスターの回廊はファン・ヴォールト(扇形ヴォールト)を用いており、そこに交差リブヴォールトに覆われたゴシック建築の典型的な構成を見ることは不可能である。垂直様式では、交差リブヴォールトが全く捨てられたわけではなかったが、多くの場合、多数の辻飾りが設けられており、その印象は木々の枝張りに例えられたネット・ヴォールトと変わらないものとなった。垂直様式のリブはヴォールト架構とはもはやなんらの関係性もなく、構造的合理性で説明できるものではない。

垂直様式における最高傑作として名高いのが、ウェストミンスター寺院の東端にあるヘンリー世チャペルである。壁面を埋め尽くす装飾は、ほとんど櫛の目を見るようであり、また天井からは、鍾乳石を思わせる石飾りが、幾つも垂れ下がっている。ここでは本来、石造建築における力学的な都合から誕生したヴォールトが、ほとんどその力学を無視するかのような装飾へと発展している。

2009年04月05日

記譜法(きふほう)

記譜法(きふほう)(英 notation)とは楽譜を書くための一定の規則をいう。

音楽を書き記すための努力は古来様々な形で行われてきて、一定の成果を上げているが、西洋にあっては、五線を用いた記譜法が登場して以来、格段の発展を遂げ、ほとんどすべての楽譜が五線を用いた記譜法やそれを基礎にした記譜法によって書かれている。

文字譜 [編集]
古代ギリシアで用いられた記譜法。歌詞の上に音高を文字で記す。 オクシリンコス・パピルスに現存する最古(紀元280年)のキリスト教(東方諸教会)の聖歌とされる『三位一体の聖歌』(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されていた。

ネウマ [編集]
ネウマ譜

計量記譜法 [編集]
en:Mensural notation

五線記譜法 [編集]
五線を用いることにより、時間を水平軸に、音高を垂直軸にとって、二つの要素を分離したことが五線を用いた記譜法の大きな特徴である。世界で最も広まっていて誰にでも理解できる共通的な記譜法である。

五線を用いた記譜法の基本は、各種の音符と休符を五線上に置くことにある。五線の水平線は、音高を相対的に明示する。五線の水平線に相当する垂直線は普通小節線だけであり、水平線のようには細かく書かれないので、音符や休符を順次並べ、それの持つ音価によって時間を詳細に示す。

音高を絶対的に表すために普通音部記号を五線の左端などにおく。また、調を示し、その調の表記に便利なように、音部記号の次位に調号を置くことが多い。拍子記号はその次に置かれる。これらは五線の途中で変わるときには、そこに置かれる。音高の小さな半音単位の変化を示すためには、臨時記号を音符の左に置く。

音楽の要素は音高と時間の2要素ではないし、この2要素ですら五線と音符だけでは十分に表しきれないので、さまざまな補助的な記号を用いる。それらは演奏記号と総称するのが普通である。演奏記号には、文字を用いてことばによって示すものと、それ以外のマークやシンボルによるものとがある。(どちらも記号と呼ばれる。)

声楽曲では歌詞が加えられる。

また、合奏練習などのために、練習番号、小節番号といった楽譜上の位置を知るための記号を加えることがある。これらの記号は音符の下または上に書かれる。

クラヴァールスクリボ
二音音楽のような現代音楽の記譜には適さない。このため様々な記譜法が考案された。五線記譜法に慣れた演奏者たちにとってそれらは五線記譜法に取って代わるものとはなり得なかったが、それらの中でももっとも成功したといえるものである。

五線記譜法は横軸に時間を、縦軸に音高をとるが、この記譜法では縦軸に時間を、横軸に音高をとる。五線の各線に相当する線は縦線で書かれ、2本、3本がまとめて書かれ、繰り返される。これらの線はピアノの黒鍵を表す。黒鍵の音は線上に音符を書く。白鍵の音は線のないところに(五線記譜法における「間」同様)音符を書く。たとえば、ハ/C音は、2本まとめて書かれた線の左の線の左に接して書かれる。

博士 [編集]
博士(はかせ)は声明(しょうみょう)の記譜法である。漢字で書かれた歌詞の一字一字の回りにその節回しを屈折した直線ないし曲線で書くもので、線は歌詞の近くから始まり、時間を追うごとにだんだん遠ざかる。おおむね、線の角度が音の高さを示す。

三味線や箏における記譜法 [編集]
三味線や箏の楽譜は、一般に、楽器の演奏の仕方を書き記したタブラチュアに分類される楽譜で書かれる。弦名や勘所名、奏法、口三味線などの唱歌(しょうか)によって示される。極簡単な例は例えば篠笛#楽譜参照。

グラフィックによる記譜法 [編集]
現代音楽などで五線による記譜法が不可能な場合に良く用いられる。例としてはブソッティなどの諸作品、アレックス・エッケルトの作品、ペーター・ホッホの作品、モートン・フェルドマンの諸作品、ケージ、シュトックハウゼンの「七つの日々から」、ミヒャエル・フェッターの諸作品、アネスティス・ロゴテティスなどが挙げられる。いずれも五線のような正確な演奏は望めなく、おおよそでやる即興音楽的な性格がとても強い。

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2009年03月21日

6号御料車

6号御料車は、明治天皇の御乗用として1910年(明治43年)10月29日に鉄道院新橋工場で製造されたものである。
アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート

ダブルルーフの木造車で、台車は3軸ボギー台車を履いている。全長は20.728m、最大幅は2.642m、車体幅は2.59m、自重は35.6t(改造後は33.01t)で、当時としては最大級の大きさである。また、台枠の側梁は中央部がふくらんだ魚腹形で、外観上の特徴となっている。

外装はチーク材を張り、深紅色の漆塗りとしており、御座所の中央部には菊の御紋章を配してその両側に桐の紋章を取付け、周囲に菊や桐の小紋を描き、御座所の窓の上には桐の紋を中央に鳳凰が向い合った浮彫りが取付けられている。また、軒部は歯形の軒飾りが取付けられ、金粉で飾られている。車体は、魚腹形の台枠部を含めて多数の金線で装飾されている。

車内は、前位側から大膳室、侍従室、御座所、侍従室、寝室、厠となっており、その前後に出入り台、侍従室に天皇が乗降車するための出入口、御座所の背後には侍従室同士を繋ぐ側通路が設けられている。御座所は、長さ5.424m、幅は1.889mで、それまでに製造された御料車中最大の広さである。天井は格天井式で、菊花を亀甲形に配した蜀江錦張りで、妻の櫛形には菊の御紋章を挟んで両側に鳳凰の飾りを配した七宝の飾りがつけられている。腰部には深紅色のビロードを用い、前後の引戸には黄色、薄臙脂色の漆塗りに桐と鳳凰と蝶の図を螺鈿と高蒔絵で描いており、まさに美術工芸の極致といった感がある。

このように本車は、内装、外装とも御料車中最も壮麗なものとして評価が高く、7号御料車 落成後も、同車に大膳室がないこともあって大正天皇が頻繁に御乗用とした。

昭和となってからは使用されず、大井工場の御料車庫に保管された。太平洋戦争中の1945年(昭和20年)5月24日、空襲により同庫に焼夷弾が命中した際、後部侍従室(側廊下側)外板の一部を少し焦がしたが、内部に被害はなかった。1959年(昭和34年)10月に廃車され、鉄道記念物に指定されたが、1966年、5号御料車とともに博物館明治村で展示することとなり、大井工場で外装の再整備が行われた。このとき、外板は漆塗りからカシウ塗りとなったが、車体の金線は製造時のままに再現されている。本車は、同年7月10日夜、大崎駅から臨時列車で明治村に送られた。

2009年03月06日

ブルックリン (装甲巡洋艦)

ブルックリン (USS Brooklyn, ACR/CA-3) は、アメリカ海軍の装甲巡洋艦。艦名はニューヨーク州ブルックリンに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
ブルックリンはペンシルバニア州フィラデルフィアのクランプ造船所で起工され、1895年10月2日にイーダ・メイ・シュイーレンによって進水、1896年12月1日にF・A・クック艦長の指揮下就役する。

ブルックリンの就役後最初の任務はヴィクトリア女王即位60周年記念式典へ出席するアメリカ合衆国代表を乗せたイギリスへの巡航であった。ブルックリンは1897年7月に東海岸へ帰還し、同海域及び西インド諸島を巡航した後、1898年3月28日にウィンフィールド・シューレイ代将率いる遊撃艦隊の旗艦となる。

米西戦争中、遊撃艦隊はキューバのシエンフエゴスに1898年5月21日に到着し港湾封鎖を行った。5月26日に艦隊はサンティアーゴ・デ・クーバに到着したが、スペイン艦隊は要塞によって守られていた。ブルックリンは7月に行われたサンティアーゴ・デ・クーバの戦いにおいて重要な艦であった。ブルックリンは20発の直撃弾を受けたものの、死者は1名(ジョージ・H・エリス)、負傷者も1名(J・ベヴィンス)に過ぎなかった。ブルックリンは1898年8月20日に帰国の途に就き、大西洋岸およびカリブ海を巡航してニューヨークのトンプキンスヴィルに帰還、10月5日に米西戦争祝勝記念式典に参加した。翌年9月にはニューヨークでのデューイ記念式典に参加した。1899年10月16日にハンプトン・ローズを出航し、スエズ運河を経由して12月16日にフィリピンのマニラに到着した。ブルックリンはアジア艦隊の旗艦として義和団の乱における外交員の救助遠征(1900年7月8日 - 10月11日)に参加し、続いてオーストラリアおよびオランダ領東インドへの巡航(1901年4月10日 - 8月7日)を行う。1902年3月1日までアジア艦隊で活動した後、ブルックリンはスエズ運河を経由して5月1日にニューヨーク海軍工廠に到着した。

1902年5月20日、ブルックリンはキューバのハバナにおいてキューバ独立記念式典に参加した。6月から7月にかけて前駐米英国大使ジュリアン・ポーンスフット卿の争議に関連した特別任務に就く。続く4年にわたってブルックリンは北大西洋艦隊およびヨーロッパ戦隊とともに巡航を行い、1905年5月26日にニューヨークに帰還する。1905年6月7日、チャールズ・ドワイト・シグズビー少将の旗艦としてブルックリンはフランスのシェルブールを訪れ、ジョン・ポール・ジョーンズの遺体を受け取った。ブルックリンがアナポリスに到着すると、ジョーンズ代将の遺体は1905年7月23日に式典と共にアメリカ海軍兵学校の墓地に再埋葬された。

1905年8月3日から23日にかけて海軍民兵の巡航を行い、その後12月28日から1906年5月8日まで地中海への巡航を行った後、ブルックリンは5月16日にフィラデルフィア海軍造船所で予備役となる。1906年7月30日から8月2日にかけて短期の特別任務をハバナで行った後、1907年の春まで予備役状態で保管された。1907年4月12日から12月4日までブルックリンはバージニア州ジェームズタウンで開催されたジェームズタウン博覧会で展示される。その後フィラデルフィアに帰還し、1907年12月21日に再び予備役となる。
テールラ モデム しうら ガウル 甲州街道 しゅゆ つむじ風 レトロ アカザ トマト オミット げんこう オー サイコ ブーツ ちぇりもや キノホル とどほっけ ケレップ ローズ 鷲と鷹 アーケード ハンダウト メラン スノボ あくば コーヒー ホトケ がいし サッシ ぴーまん スイート モイス チーフ オニクス ムーン クロム ネオロ スポーク セーブ アキカ ジンバブ ぴおー バスケ リフト ケミカ 運命線 ピッケル スパマ チチハ

ブルックリンは1908年6月23日に退役するが、1914年3月2日に最就役し、大西洋予備役艦隊に配属、1914年7月24日から1916年3月13日までボストン海軍工廠で収容船として使用された。1915年5月9日にフィラデルフィアで完全に就役し、11月までボストン湾近辺のパトロールを行う。その後最高司令部の旗艦としてアジア艦隊に向かう。ブルックリンはアジア艦隊第1戦隊司令官の旗艦として中国、日本、ロシアで定期的な軍事、外交任務を1919年9月まで行う。1920年に CA-3 (重巡洋艦)に艦種変更され、1月には太平洋艦隊に配属、駆逐戦隊の司令官旗艦として1921年1月15日まで活動する。ブルックリンは1921年3月9日にメア・アイランド海軍工廠で退役し1921年12月20日に売却された。

2009年02月14日

まじかる☆アンティーク

主な流れは、異世界『グエンディーナ』からやってきた魔法使いのスフィーと共に骨董品店を経営していくというもので、店の経営を行うSLGパートとキャラクターとのやり取りを行うAVGパートに分かれる。骨董品店という舞台設定に意外性はあったが、ゲームシステムやシナリオは堅実にまとめられ、キャラクターの可愛らしさや同種のゲームの中では比較的廉価なこともあって、爆発的とは言えないながらも人気を博した。
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

本作は『こみっくパーティー』に続くLeafのSLG路線の走りにもなったが、最大の特徴である経営部分と攻略キャラクターのシナリオが十分にリンクしきれていない部分が多くあった為か、ゲームとして高い評価には至らなかった。その理由として、攻略上多額の売り上げが必要な高倉みどりと、レベル調整で魔法を使用しなければならないスフィーを除く3人については、SLGパートをほとんど無視してもハッピーエンドを迎えられるという点が挙げられる。

本作発売当時のLeaf大阪本社は、ビジュアルノベル路線からの脱却を図っていた時期であった。しかし東京開発室の設立など、新しい流れに旧来のファンが反発。また、後作の『誰彼』が失敗に終わったことや、『痕』での盗作騒動などが重なり、日毎にアダルトゲームファンの間で論争が激化。結果として大阪本社は『To Heart』の頃に比べて斜陽化されたと言われ、本作もその要因とされていた。しかし実際に売り上げ、評価共に水準以上ではあり、多くのファンから駄作と呼ばれるほどではなかった。

主人公・宮田健太郎の両親は骨董品店「五月雨堂」を経営している。その両親が突然海外に長期の買い出し旅行(を名目にしたラブラブ旅行)に出かけた為、彼はまだ大学生であるにもかかわらず、やむなく留守の間の経営者となってしまう。途方に暮れたその矢先、天空から突如光が降ってきて健太郎に衝突。あえなく死亡してしまった彼は、その光の正体である魔女・スフィーの魔法によって蘇る。だが、彼女によれば今の彼の身体は、100日間に渡って常時魔力の供給を受けていないと完全回復せず、再び死を迎えてしまう不安定なものらしい。

かくして、健太郎はスフィーと一つ屋根の下で共同生活を送り、共に五月雨堂を切り盛りしていくことになった。

宮田健太郎(みやた けんたろう)
誕生日:9月12日
国立大学の大学生だったが、両親によって大学を休学させられ骨董屋「五月雨堂」の経営を預かることになる。この手のゲームの主人公としては珍しく、本編において顔が明確に描かれている。170?の結花より背が高いのも明らかなので、身長はかなり高いと思われる。
なお、2003年に発売された『Routes』には本作後の彼らしきキャラクターが登場しており、PC版では他のキャラと同じく声が無かったが、2007年に発売された同作のPS2版及びPSP版にて、本作の人物では初めて声が付いた(声優は不明)。ちなみに、劇中では温厚で若いハンサムと紹介されている。

ヒロイン
スフィー・リム・アトワリア・クリエール
誕生日:3月12日 / 血液型:O型 / テーマ曲『Pretty Daisy』・『Precious Daisy』
本来の姿?身長:168cm / スリーサイズ:88-57-86
レベル1?身長:135cm / スリーサイズ:64-53-69
レベル2?身長:149cm / スリーサイズ:69-55-73
レベル3?身長:162cm / スリーサイズ:79-58-79
レベル4?身長:167cm / スリーサイズ:86-57-85[1]
本作のメインヒロイン。家のしきたりの為、魔法世界グエンディーナから『こっちの世界』にやって来た魔女。年齢は21歳だが、プロローグにおいて健太郎の蘇生に魔力を使い果たした影響により、幼い少女の姿となった。結花の作るホットケーキが大好物で、その食欲は凄まじいものがある。反面、料理の腕は下手。その性格、見た目と裏腹に魔法の腕は超一流である。ゲームの進め方によってスフィーの魔力は増減し、それに応じてレベル1から4まで4種類の姿に成長する。本来の姿はレベル4よりもさらに成長した状態であり、プロローグやエンディングでのみその姿を見ることができる(ただし、プロフィール上でも数cmしか違わないため、グラフィック上ではレベル4との明確な差異はほとんど見られない)。なお彼女の正体を知る健太郎・リアン・結花以外の人間には容姿の変化は認識出来ない。
リアン・エル・アトワリア・クリエール
身長:156cm / スリーサイズ:77-60-78 / 誕生日:6月15日 / 血液型:A型 / テーマ曲『Blue Lavender』
スフィーの妹で、姉を追いかけてグエンディーナからやってきた眼鏡っ娘。姉に比べるとしっかり者の為、幼い姿となったスフィーの横に立つとどちらが姉か分からなくなる。性格は落ち着いているが、思い込んだら無茶をする性格でもある。姉と同じく魔法使いではあるが、ゲーム中魔法を使うシーンは少なく、魔法の影響によって容姿が変わるようなこともない。なお、『こっちの世界』に来てからは結花の家に居候することとなる。
江藤結花(えとう ゆか)
身長:170cm / スリーサイズ:78-56-82 / 誕生日:11月24日 / 血液型:B型 / テーマ曲『ヒマワリの丘』
喫茶店『HONEY BEE』の自称看板娘で、健太郎の幼馴染。明朗快活な性格で、胸の小ささをからかう健太郎を怒った結花がどつき(蹴り)倒す光景は、日常茶飯事である。運動神経が良く高校時代は水泳部に所属しており、水泳の県大会ではチャンピオンになるほどの実力であった。可愛い物が大好きで、幼くなったスフィーを抱きしめるのが日課。プロ野球チーム遠鉄バッファーズ(実在の遠州鉄道とは無関係)を応援している。
高倉みどり(たかくら -)
身長:164cm / スリーサイズ:91-60-90 / 誕生日:5月2日 / 血液型:A型 / テーマ曲『Gentle Breeze』
五月雨堂の常連客。高倉財閥のお嬢様で、父親も五月雨堂の常連客である。骨董品を購入の際には値切り交渉を行うなど、意外な行動が多い。コミック版によれば運動神経が良いらしい。彼女のシナリオは雨之幸永が担当。
牧部なつみ(まきべ -)
身長:158cm / スリーサイズ:80-58-82 / 誕生日:2月21日 / 血液型:AB型 / テーマ曲『君のRiddle』
骨董には興味が無いのに、何故か五月雨堂を頻繁に訪れる女子高生。彼女の深層意識が分身となって登場し、通称はココロと呼ばれている。実は隠しヒロインであり、一度ゲームをクリアしないと登場しない。
彼女のシナリオは高橋龍也が担当。後にファンディスク『アルルゥとあそぼ!!』のミニゲーム『グエンディーナの魔女』では、主人公を務めた。
名前の由来は『機動戦士ガンダム』のマ・クベから。

サブキャラクター
長瀬源之助(ながせ げんのすけ
TV番組『どれでも鑑定班』に出演している骨董鑑定人。『神の腕』と言われるほど、優れた骨董品修繕の腕を持つ。健太郎とは古くからの知り合い。Leafではお馴染みの長瀬一族の一員で、テーマ曲の『長瀬源之助』も長瀬のテーマの和風バージョンである。TV番組名共々、モデルは『開運!なんでも鑑定団』に出演している鑑定士の中島誠之助。なお、容姿がレベル1時のスフィーとリアンのシナリオを進めると、意外な正体が判明する。
高倉宗純(たかくら そうじゅん)
高倉みどりの父親で、高倉財閥の会長でもある。みどりと健太郎の仲を裂こうと、無理難題を押し付ける。車は自分で運転しないと気が済まない。血筋なのか、骨董品を買う時は必ず値引き交渉を行う。
因幡ましろ(いなば -)
黒いうさぎの絵皿を求めて五月雨堂にやってくる。容姿や喋り方は古風で掴み所が無いが、その正体は…。
江藤泰久(えとうやすひさ)
結花の父親で『HONEYBEE』のマスター。健太郎の父親の友人で、健太郎とも旧知の仲。料理の腕前は一流。娘には頭が上がらない。本編未登場の妻(結花の母親)の美希は、若い頃は結花に似ていた。健太郎の父親と泰久と美希の三人には、かつてラブロマンスがあった。
フリマの兄ちゃん
本名は不明。フリーマーケットに登場する。スフィーをおだて上げるなど、商売上手な面もある。
骨董市のおっちゃん
本名は不明。健太郎とは古くからの知り合い。曰く付きの商品を持ち込むことが多い。
骨董祭の爺さん
本名は不明。月に一度開催される骨董祭に掘り出し物を出店してくる老人。かなりの目利きである。とあるイベントでも登場する。
牧部なつみの叔父
本名は不明。通称「牧ちゃん」。両親のいなくなったなつみを引き取って育てた。骨董に興味があり、みどりシナリオでは五月雨堂の客としても登場している。
和由(わゆ)
五月雨堂の近所にあるパン屋の女の子。飼い猫のさくらを探し、健太郎とスフィーに協力を求めてくる。
あきら
スフィー、結花、リアンの各シナリオにおいて、別の理由でようすけと共に五月雨堂を訪れる子供。結花シナリオを進めた時だけ、あきらについて意外な事実が判明する。
ようすけ
あきらと一緒に五月雨堂を訪れる男の子。
西中島美南(にしなかじま みなみ)
コミック版にのみ登場する、高飛車なお嬢様。みどりを一方的にライバル視しており、彼女が懇意にする五月雨堂を潰すべく、対抗して骨董店(というかビル)を建てる。名前の由来はLeaf大阪本社の最寄駅「西中島南方駅」。
ミュージィ
グエンディーナ人であるキャラクターの母親でエンディングに登場する。
あすか
健太郎とあるキャラクターの間に生まれた娘。Leaf作品では珍しく主人公とヒロインの実の娘で、名前とセリフが設定されている。エンディングに後姿のみ登場。
雅(みやび)
健太郎とあるキャラクターの間に生まれた娘。あすかと違ってセリフは無いが、一応顔の出ているCGはある。エンディングにのみ登場。

2009年01月28日

萩の乱

萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約100名によって起こされた反乱である。
トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

10月28日、萩の明倫館(旧藩校)を拠点にして、前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵。しかし政府側に察知され、萩で広島鎮台の攻撃を受け、11月6日までに三浦梧楼が率いる政府軍により鎮圧された。前原・奥平ら幹部7名は本隊と別行動をとり東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、11月5日に逮捕された。

12月3日に萩で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平は即日斬首された。

なお、松下村塾の塾頭玉木文之進(吉田松陰の叔父)は塾生であった前原らが事件に関与した責任を感じ、切腹した。

秋月の乱(あきづきのらん)は、1876年(明治9年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

経緯
1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。

神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で警察官を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら七士は自刃した。抗戦派の今村は他26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払ったのち、分かれて逃亡したが、11月24日に逮捕された。なお益田は挙兵前の10月26日に旧佐賀藩士族の同時決起を求めるため佐賀へ向かったが、その帰りに逮捕されている。

12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。

この乱により、秋月城が破壊されてしまった。

現在、秋月にある秋月郷土資料館(戸波半九郎屋敷跡)に、幹部直筆の辞世の句などが展示されている。
神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。敬神党の乱とも言う。

1876年10月24日に旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら、約170名によって結成された「敬神党」により廃刀令に反対して起こされた反乱。この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので、神風連の乱と呼ばれている。名誉回復、すなわち贈位後(大正13年2月11日、太田黒・加屋に、正五位を贈られた後)は、「神風連の変」と呼称される。

1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。しかし翌朝になると、政府軍側では兒玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。

敬神党側の死者・自刃者は、計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。

この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる。

敬神党
敬神党は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派である。

肥後藩では、教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党(河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅ら)が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。

この敬神党は、神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は、多くが神職に就いており、新開大神宮で「宇気比」(うけい)と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵したのである。

三島由紀夫は、晩年、神風連の乱に強い関心を持ち、敬神党の思想に共感していたといわれる。

その他
種田が殺害された際、その場にいた種田の愛妾小勝は負傷しながらも、熊本電信局へ走り、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)と打った電報を、東京の父に送信した。このエピソードは、カタカナのみを使い、短く簡潔かつ的確にまとめることが重要な電報文体の好例として新聞紙上に紹介され、当時の一般市民が電報の利用方法や有用性を理解するきっかけの一つになった。

佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。

佐賀の乱を報じた東京日日新聞の記事
佐賀の乱慰霊碑。佐賀市水ヶ江にある。地元有志によって大正年間に建立(2005年5月撮影)征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高らを擁する憂国党による旧佐賀藩士を中心とした反乱であり、以後続発する士族による乱の嚆矢となった。

征韓党と憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。また、江藤はそもそも不平士族をなだめるために佐賀へ来たのである。しかし、江藤は島より、既に政府が佐賀士族討伐の方針であることを聞き、挙兵の決意を固めざるを得なかった。なお、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族は、あくまで政府に忠実な方針を固め、政府軍に協力することとなる。

明治7年2月9日、内務卿大久保利通は、文官でありながら兵権を握る権限を得て、嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)が征討総督として現地に着任するまで、すべての事項を決済した。大久保は東京から引き連れた部隊に加えて大阪の鎮台部隊等を直ちに動員し、博多に向かう。

まず、佐賀軍は、2月15日に県庁が置かれた佐賀城(佐賀県佐賀市)に籠もる佐賀権令の岩村高俊と、彼を護衛する山川浩少佐の率いる熊本鎮台部隊と交戦して大損害(3分の1が死亡)を与え敗走させた。さらに福岡との県境の朝日山(現・鳥栖市)まで進んで2月22日には新手の政府軍部隊を迎撃、三瀬峠では小笠原義従の部隊等を散々に破った。しかし、大久保利通が直卒した近衛兵や鎮台兵などが次々と戦線に投入されると、佐賀軍は次第に劣勢となる。この後も佐賀軍は善戦し、佐賀県東部の中原では、政府軍を包囲殲滅する直前まで追い込んだが、官軍指揮官の陸軍少将野津鎮雄が自ら先頭に立って兵を励まし戦ったので、ついに敗れた。

2月28日、政府軍が佐賀城下に迫ると江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めた。しかし、西郷に決起の意志はなかったため、今度は土佐へ向かい片岡健吉と林有造に挙兵を訴えた。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日高知県東洋町甲浦で捕縛される。捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、江藤は裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかったという。

島義勇は佐賀で討ち死にするつもりであったが、副島義高らが「境原で官軍を防ぐので再起を期せ」と無理矢理脱出させた。島は、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが、3月7日に捕縛された。

江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に審議を行わせた。わずか2日間の審議で11名が4月13日の判決当日に斬首となり、江藤と島は梟首にされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝がある。その後もしばらくは佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、1877年(明治10)の西南戦争などに合流する士族もあったが、佐賀で反乱が起こることはなかった。なお、反乱後しばらく庶民の間で、江藤の霊を信仰すると眼病が癒り、訴訟ごとがスムーズに決着するとの風聞が流れた。

1919年(大正8)、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されるとともに、地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。

経過
1874年(明治7)1月16日 征韓党士族が「征韓先鋒」の出願を決議。県に弘道館の貸与を強請。
同1月25日 前参議江藤新平、佐賀に帰郷。征韓党の勢いが昂進する。
同1月28日 岩村通俊前権令の実弟岩村高俊が後任に任命される。岩村は長岡藩家老河井継之助の中立歎願を拒絶し、北越戦争の発端をつくった人物である。
同2月1日 憂国党に属する士族が官金預かり業者である小野組に強引に金談。店員ら逃亡。
同2月4日 政府、熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令。谷は拙速命令と批判。
同2月5日 政府の鎮圧命令を佐賀士族が電信局で探知。士族の議論が沸騰し、森参事ら他県出身の県官は逃亡。
同2月9日 内務卿大久保利通に九州出張命令。捕縛・処刑、兵力による鎮撫の権限を委任される。
同2月13日 岩村権令が熊本に到着。入県の護衛を同県人の熊本鎮台司令長官谷干城少将に依頼。この日、長崎に移っていた江藤も佐賀に戻り、「決戦の議」を起草。太政大臣三条実美の要請に応じて帰国した前侍従島義勇も同調し、征韓・憂国両党の結束が強まる。
同2月14日 山川浩少佐の左半大隊と岩村権令が熊本鎮台から海路、佐賀に向かう。大久保内務卿、東京鎮台兵とともに横浜を出航。
同2月15日 岩村権令と鎮台兵、佐賀城の県庁に入る。翌未明より佐賀士族が城を包囲し砲撃。岩村らの乗船も拿捕される。
同2月18日 岩村権令と山川少佐ら、食糧と弾薬が不足したため、包囲を突破して久留米に撤収。奥保鞏大尉(のち元帥)らが負傷し、将兵332名中137名戦死。
同2月19日 佐賀征討令が発せられる。大久保内務卿と野津鎮雄少将、鎮圧部隊を引き連れ博多に到着。
同2月20日 野津少将指揮の東京鎮台砲隊と大阪鎮台二個大隊、集結を終え、夕刻より行動開始。
同2月22日 鳥栖近郊の朝日山で佐賀士族と政府軍が激突。佐賀士族、後退し政府軍は長崎街道沿いに中原に進む。
同2月23日 政府軍、兒玉源太郎大尉が重傷を負うなど激戦の末、寒水川を渡る。さらに吉野ヶ里遺跡付近の田手川に設けられた阻止線を突破。江藤は西郷隆盛の援軍を仰ごうと、征韓党幹部を連れて鹿児島へ脱出。神埼(神埼町)が焼失した。
同2月27日 政府軍、総攻撃開始。姉村、境原で激戦。三瀬峠も旧福岡藩士族の貫属隊に突破される。
同2月28日 憂国党幹部の木原隆忠と副島義高が休戦交渉。政府軍は拒絶。島らは鹿児島に脱出。長崎から入った海軍の陸戦隊が無人の佐賀城を確保する。
同3月1日 大久保内務卿と政府軍、佐賀城に入城。征討総督嘉彰親王、近衛兵を率い東京出発。この日、江藤は宇奈木温泉で西郷隆盛に面会。支援を拒絶される。
同3月7日 島義勇、鹿児島で捕縛される。16日に佐賀に護送される。
同3月14日 総督嘉彰親王、佐賀に到着。
同3月29日 逃亡中の江藤が高知県甲ノ浦で捕縛される。
同4月5日 佐賀臨時裁判所設置。
同4月7日 江藤が佐賀に護送される。
同4月9日 江藤らの尋問開始。大久保、嘉彰親王に随従し傍聴。
同4月13日 江藤・島ら11名に死刑判決が下る。即日処刑(斬首のうえ梟首)される。
1919年(大正8)7月1日 大韓帝国の皇太子であった李垠と皇族方子女王の婚約発表による特赦令により、江藤や島など逆賊扱いされていた佐賀の乱の首謀者らが赦免される。
1920年(大正9) 地元佐賀に、佐賀の乱の慰霊碑が建立される。